日本における賃金動向の特徴と春闘
2022/03/01
【労働分配率が上昇している中での春闘】
春闘が始まっています。春闘は、労使が集中的に賃上げ等についての交渉を行う機会で、その結果は、大企業について3月中旬に、中小企業についてはそれに若干遅れて明らかになります。
近年の春闘は、勤労者の生活向上だけでなく、マクロ経済的な観点からも注目されています。賃上げが消費を喚起し、需給ギャップの縮小を通じて、デフレ脱却という長年の課題を解決する鍵を握っていると考えられているからです。
しかし、一見すると、賃上げの実現は困難のようにも見えます。第1図が示しているように、国民所得に占める雇用者報酬の割合で見た労働分配率は、足元ではかなりの上昇を示しているからです。
しかし、ここで注意をしなければならないのは、賃金の水準自体は決して高くないということです。実は、第1図が示しているのは、賃金が景気循環を通じて比較的安定しているという、現在の日本における雇用システム(戦後の高度成長期において成立したという意味では「高度成長期型」雇用システムとも呼ぶべきもの)の特徴を反映しています。以下では、この点を少し敷衍しましょう。
【労働生産性に比べて限定的な実質賃金の変動】
賃金(雇用者報酬)と利潤(営業余剰・混合所得)の源泉は、国民所得(国民総所得から固定資本減耗と生産・輸入品に課される税マイナス補助金を控除したもの)にあります。これを雇用者一人当たりの実質額で考えると、実質賃金と実質利潤の源泉は労働生産性にあると言い換えることができます(実質化は民間消費デフレーターで行うこととします)。
この関係を前提にすると、ここでの関心は、労働生産性が、どのように実質賃金と実質利潤に分配されているか、ということです。
これを見たのが、第2図です。これを見ると、労働生産性は、景気循環を反映して大きな変動を示していることが分かります。バブル崩壊後の1990年代後半に下落を示した後、戦後最長の景気拡張局面に相当する2000年代初頭から後半にかけて上昇を示しました。その後、世界金融・経済危機の勃発に伴って大きく下落し、2010年代のアベノミクスの時期に回復をしますが、2018年に景気後退局面に移行すると再び下落に転じ、その下落幅はコロナによってさらに大きなものになっていることが分かります。
一方、この間の実質賃金の動きを見ると、その変動は限定的です。景気循環に伴って賃金はもちろん調整されますが、それは主として残業手当やボーナスの形態をとっているため、賃金総額に占める割合で見ると限定的だからです(現金給与総額に占める所定外給与と特別給与の合計は、コロナ以前の景気拡張局面である2017年においても約24%)。賃金の大宗をなす基本給の変動を見ると、より安定しているのです。この結果、実質賃金は、景気後退局面で大きく減少することがなかった代わりに、景気拡張局面になっても大きく上昇することがありませんでした。また、このことを反映して労働分配率も大きく変動することになったと考えられます。つまり、景気後退局面においては上昇し、景気拡張局面においては下落することになったのです。
【実質利潤の増加と内部留保】
それでは、労働生産性と実質賃金の差である実質利潤はどのような動向を示したのでしょうか。それを確認するために第3図を見てみましょう。これは国民経済計算の現行基準の数値が入手可能になる1994年度を100とした指数で、労働生産性、実質賃金、実質利潤の動向を見たものです。これを見ると、バブル崩壊に伴う負の遺産で苦しんだ1990年代においては、労働生産性、実質賃金、実質利潤のいずれも横這いで推移していたことが分かります。これらが変化を示しだすのは、2000年代以降です。この時期に入ると、労働生産性は、緩やかな上昇を示すようになります。それは実質賃金と実質利潤の原資が増加し始めたことを示しているわけですが、これがどのように分配されたかを見ると、それはもっぱら実質利潤に配分されたことが分かります。実質賃金は基本的に横這いで推移したのに対して、実質利潤は、世界金融・経済危機やコロナで減少する局面はありましたが、基本的には増加基調にあったのです。
このような実質利潤の増加は、法人部門での内部留保の増加にも表れています。第4図を見ても分かるように、内部留保のGDP比率を見ると、上昇を続け、2020年度においては、GDPの約87%にまでなっています。
【賃上げの必要条件】
仮にこのような内部留保を賃金に(遅れた形で)還元することができるとすれば、どうでしょうか。マクロ的に期待される効果を実現することができるかもしれません。ただし、賃上げが家計消費を刺激するためには、いくつかの条件が満たされていなければならないことには注意を要します。
第1に、賃上げは実質ベースで行われなければならないことです。言い換えると、賃上げの名目額は、物価上昇率を上回らなければならないということです。例えば、物価上昇率が目標と同じ2%であるとすれば、名目賃上げ額は2%超でなければならないということです。
第2に、賃上げは、マクロ的な賃金総額の増加をもたらさなければならないということです。春闘に際してしばしば言及される賃上げ額には、定期昇給分が含まれています。もちろん、定期昇給の有無は個人にとっては重要です。しかし、この部分は、必ずしもマクロ的な賃金総額の増加にはつながるわけではありません。既存の賃金表が適用される個人名が変わるだけで、雇用者数やその年齢構成が変わらない限り、賃金総額は変わらないからです。マクロ的に重要なのは、賃金表自体の上方改訂です。いわゆる「ベースアップ」が重要だということになります。
また、家計消費が増加するためには、賃上げが一時的なもの(変動所得)ではなく、恒常的なもの(恒常所得)であることも重要です。その意味でも、賃上げがベースアップであることは重要です。
第3に、家計消費が持続的に増加するためには、ベースアップも継続的なものである必要があるということです。一回のベースアップは、一回限りの家計増加には寄与しますが、その後は横這いになり、伸びは期待できません。もし家計消費の伸びが続くことを期待するのであれば、ベースアップも継続的なものでなければならないわけです。
【賃上げをする機会としての春闘】
賃上げをするか否かは、労使交渉の結果を踏まえ、企業が決定すべきことです。しかし、その決定が個々の企業にだけ委ねられた場合、実現が難しい面があります。それは、自分だけが賃上げを行えば、それだけコストアップになり、収益圧迫要因になるからです。相対的な競争力を低下させるようなこのような決定は、特にデフレ的な環境の下では、困難かもしれません。マクロ的な効果が分かっていてもそれができないという、このような状況は、「協調の失敗」と言っても良いような状況です。
その意味では、春闘は、賃上げの恰好の機会を与えてくれます。同一産業に属する企業が一斉に賃上げをすることになるので、相対的な競争力の変化は回避できるからです。
こうした観点からも、今年度の春闘の結果が注目されるところです。
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