一覧へ戻る
齋藤潤の経済バーズアイ (第126回)

交易条件の悪化と賃上げ

 

2022/10/03

【顕著な物価の上昇】

 物価が上昇を続けています。2022年8月の消費者物価指数の前年同月比上昇率は、総合でプラス3.0%、生鮮食品を除く総合でもプラス2.6%となっています。いずれも、消費税率引き上げの影響で上昇した場合を除くと、いずれも1991年以来の上昇幅です。

 コロナによる大きな落込みからの回復は、日本では諸外国よりも遅れています。実質GDPの水準は2022年4~6月期になってようやくコロナ直前のピークである2020年1~3月期の水準を超えたばかりで、依然として3%程度のマイナスのGDPギャップ(マクロ的な需要不足を表す)が存在している状況です。にもかかわらず、このような物価の上昇がみられる背景には、2020年春以降の一次産品価格の上昇と、2022年3月以降の円安があります。

【物価上昇の背景にある交易条件の悪化】

 一次産品価格は、諸外国でのコロナからの景気回復を背景にして、2020年春から上昇を始めました。金属、食料・飲料、農産物原材料を皮切りに、天然ガスや石炭、原油の価格も上昇を示すようになりました。特に顕著なのは天然ガスで、ロシアのウクライナ侵攻やそれに対する対ロ制裁の影響も加わり、2020年1月の水準に比べて約9倍の水準にまで上昇しています。こうした一次産品価格の上昇は、図表1でも見て取れるように、一次産品の太宗を外国からの輸入に依存する日本の輸入物価指数を契約通貨ベースで大幅に引き上げることになりました。

 こうした一次産品価格の上昇は、景気回復が先行していた欧米では一般的で持続的な物価上昇、いわゆるインフレーションをもたらすことになりました。そのため、欧米の中央銀行は相次いで金融政策を引き締め基調に切り替え、利上げを続けています。英国(イングランド銀行)では2021年12月から本年9月までに7回の利上げ、米国(連邦準備制度)では本年3月以降9月までに5回の利上げが行われています。ユーロ圏(欧州中央銀行)でも本年7月にマイナス金利の解除・利上げをした後、9月にも利上げが行われました。こうした欧米での利上げの動きは、依然として量的・質的金融緩和政策を維持している日本と諸外国との間の金利差を拡大することになります。これが大幅な円安をもたらすことになったわけです。

 本年3月に115円台にあった円の対ドルレートは、9月には145円台にまで減価し、これを受けて、通貨当局は24年ぶりの円買い・ドル売り介入を実施したことは記憶に新しいところです。このような円安は、日本の輸出財や輸入財の価格が外国通貨建てで固定される傾向が強いことから、日本の輸出物価指数と輸入物価指数の両方を円ベースで上昇させることになりました。この点は、前掲の図表1でも確認できます。

 以上のように、日本の輸出物価指数と輸入物価指数はともに上昇しているわけですが、一次産品価格が上昇している分だけ輸入物価指数の上昇幅が大きいので、輸出物価指数を輸入物価指数で除して求められる交易条件の変化を図表2で見てみると、2020年春以降、一貫して悪化傾向を示していることが分かります。

【交易条件の悪化にどう対応すべきか】

 交易条件の悪化は、日本経済にとっては与件です。日本だけではどうすることもできないからです。しかも、交易条件の悪化は、海外への支払の増加を意味するので、日本の実質所得の減少を意味します。このことは、実質国内総生産(GDP)に海外からの所得の純受取の実質値と交易条件の変化の影響(国民経済計算上は交易利得・損失と言います)を加味した実質国民総所得(GNI)が実質GDPを大きく下回っていることでも分かります。

 日本経済に対して大きなマイナスの影響をもたらすことになる交易条件の悪化に対して、日本経済はどう対応すべきでしょうか。日本経済として回避できないマイナスの影響なので、誰かが負担をしなければなりません。誰がどれくらいの負担をすべきなのでしょうか。

 実は、戦後の日本経済において、今回のような大幅な交易条件の悪化に見舞われた経験は3回あります。第1次石油ショック時、第2次石油ショック時、そしてサブプライム住宅ローン問題が顕在化した後の米国の金融危機時(リーマンショック直前)です。

 以下では、それぞれの時期における対応について考えてみたいと思います。ここで用いるのは、国民経済計算確報の付表にある「財貨・サービスの需要と供給」と「経済活動別の国内総生産・要素所得」のデータです。この二つの表から、「総供給」(国内で生産された産出額+輸入)の数量1単位当たり総コストを求め、その内訳を「中間投入等コスト」(中間投入+固定資本減耗+間接税マイナス補助金)、「輸入コスト」、「賃金コスト」(雇用者報酬)、「利潤コスト」(営業余剰・混合所得)に分割した上で、総供給に占めるそれぞれのシェアを求めることによって分析をします。

(1)第1次石油ショック時の経験

 例えば、第一次石油ショック時については、図表3のようになります。

 この表では、1972年における名目総供給を実質総供給で除して求めた総供給デフレーターを100としています。総供給デフレーターは、総供給数量1単位当たりの総コストを表していると解釈できますので、そのコストの内訳を「中間投入等」、「輸入」、「賃金」、「利潤」に分けて、それぞれを総供給数量1単位当たりで示しています。また、同じような計算を1973年と1974年についても行っています。ただし、総供給デフレーターについては、1972年のそれを100とした時の指数として表しています。

 これを見ると、総供給数量1単位当たりの総コストは、この3年間で48.3%も上昇していることが分かります。その原因は第1次石油ショックをもたらした原油価格の上昇にあります。その点は輸入コストが上昇していることで確認できますが、第1次石油ショックの時には、それ以外の中間投入財等や賃金、利潤も上昇していたことが分かります。輸入コストの上昇を契機に他のコストの上昇をもたらされていたわけです。まさに「狂乱物価」と言われるようなインフレ的な状況にあったことを示しています。

 ただし、それぞれのコストの上昇が、総供給数量1単位当たりの総コストの上昇に比べてどうかというと、様相は少し違ってきます。総供給数量1単位当たりの総コストは、総供給デフレーターであることは先述した通りですが、そうであれば、各コストを総供給デフレーターで除すことで実質化して見れば良いということになります。実は、その変化は、各年の総コストに占める各コストのシェアで示されているので(*)、それを見ることで確認できます。

 *例えば名目賃金コスト(WL)の名目総供給(PQ)に占めるシェアを求めると、WL/PQとなりますが、これは総供給数量1単位当たりの名目賃金コスト(WL/Q)を総供給デフレーター(P)でデフレ―トした形になっています。

 そういう視点でもう一回第1図を見てみると、輸入のシェア(実質輸入コスト)は確かに4.0%→4.5%→6.2%と上昇していることが分かります。これが第一次石油ショックの直接的な影響です。しかし、中間投入等のコストのシェア(実質中間投入等コスト)は60.0%→60.2%→60.2%とほとんど変化をしていません。つまり中間投入は総供給デフレーターと同じような上昇を示していたのです。そうなると、実質輸入コストが上昇した分は、残りの賃金コストと利潤コストの変化で吸収していなければならないことになります。

 そこで、賃金と利潤のシェアの変化を見ると、賃金コストのシェア(実質賃金)は21.3%→21.2%→21.5%とほぼ横ばいとなっていたことが分かります。これに対して、利潤コストのシェア(実質利潤)は14.8%→14.1%→12.1%と低下しています。この結果、労働分配率は59.0%→60.1%→64.0%とかなりの上昇を示しています。この時期の春闘賃上げ率(厚生労働調査)を見ると1973年には20.1%、1974年には32.9%と高い賃上げを実現していましたが、そのために、この時期における交易条件の悪化の影響は、家計部門が負担することはなく、もっぱら企業部門によって負担されることになったのです。

 このことは、振り返ってみると、企業への影響を深刻なものにし、日本経済の第1次石油ショックからの回復を困難にしたようです。実際、1974年には消費者物価上昇率が23.2%にまで高まり、実質成長率も-1.4%のマイナス成長を記録しています。

(2)第2次石油ショック時の経験

 この経験は大きな教訓を与えることになります。その後における交易条件の悪化に対する対応は、大きく変わったように見えます。そのことを第2次石油ショックについて確認しようとしたのが、図表4です。図表3で行ったのと同じような計算を第2次石油ショック時について行っています。

 これを見ると、1978年から1980年にかけて、賃金コストのシェアは24.7%→23.7%→22.5%と低下し、利潤コストのシェアも12.5%→11.9%→11.2%と低下しています。つまり、第2次石油ショックにおいては、交易条件の悪化を家計部門と企業部門の双方で負担した形になっているのです。この結果、労働分配率も66.3%→66.5%→66.8%とほぼ横ばいで推移しました。このこともあって、第2次石油ショックの時には実質成長率や物価上昇率への影響は限定的で、国際的にも比較的影響が小さいものに止まったと評価されています。

(3)米国の金融危機時(リーマンショック直前)の経験

 同じようなことは、サブプライム住宅ローン問題が顕在化した後の米国の金融危機時(リーマンショック直前)においてもみられました。それを示しているのが図表5です。

 この場合にも、輸入コストのシェアが6.5%→7.4%→7.9%と上昇したのに対して、賃金コストのシェアは24.9%→24.5%→24.0%へと低下、利潤コストのシェアも11.3%→10.4%→10.2%へと低下しました。この時期も、基本的には交易条件の悪化の影響を、家計部門と企業部門とがともに負担し合う形となっていました(ただし、労働分配率は68.8%→70.2%→70.2%へと上昇を示しました。2007年の春闘賃上げ率は1.87%)。これを受け、消費者物価指数の上昇率は2007年の0.0%にとどまる一方、実質GDP成長率は2007年にプラス1.5%を記録しています。

【交易条件が悪化するなかでの賃上げ】

 以上のように、外的なショックである交易条件の悪化に対して、そのマイナスの影響をどのように負担するかは、日本経済の動向にとっては大きな意味を持っています。そして、これまでの経験の中で得られた教訓は、交易条件が悪化するような場合には、家計部門と企業部門がともに負担することが求められるということでした。その目安としては、例えば労働分配率がほぼ一定であるかというようなことが考えられます。

 しかし、家計にとっては、物価が上昇しているのにもかかわらず、賃上げが制約されることは、実質賃金が目減りすることになる懸念があり、望ましくありません。現在のような物価上昇がみられる中にあっても、交易条件が悪化している状況の下では、実質賃金の低下を甘受しなければならないのでしょうか。そうした事態を回避することはできないのでしょうか。

 この点を、2023年度における賃上げの問題として考えてみましょう。このためには、まず2023年度の経済の姿を想定することが必要です。この時点で確定的なことはもちろん言えませんが、手掛かりはあります。民間エコノミストの見方を集計したESPフォーキャストの2023年度見通しと、内閣府の参考試算があります。その両者を比較した図表6を見ると、いずれも同じような姿を描いており、大きな違いはないので、ここではより多くの計数が発表されている内閣府の参考試算に基づいて試算をしてみたいと思います。

 内閣府の参考試算によると、2023年度の名目GDP成長率は2.2%となっています。名目国民所得も名目GDPと同じ伸びを示すことと想定することができたとしましょう。もし、ここで、交易条件の悪化に遭遇している中にあって(参考試算では、足元以降の一次産品価格の上昇や円安を想定していませんので、前年度比で大きな悪化を見込んでいるわけではありませんが)、家計部門と企業部門がともに負担をすることを前提に、労働分配率を一定にするように賃上げをすることになったとすると、賃金総額(雇用者報酬)も同じ2.2%で増加することになるはずです。(この伸びは、仮に労働分配率を名目GDPに対する雇用者報酬の比率と考えたとしても同じことになります。)

 他方、参考試算では、雇用者数の増加率は0.1%と見込まれています。そうであれば、賃金総額の増加率が2.2%ということは、一人当たり賃金は2.1%で増加するはずだということになります。もしこの賃金増加率が実現可能であれば、同じく参考試算で示されている2023年度の消費者物価指数上昇率である1.7%を上回っていますので、消費者の購買力という意味で、実質賃金を消費者物価指数でデフレ―トしたもので考えたとすると、実質賃金は増加することになります。

 内閣府の参考試算でどのような賃金の姿が描かれているのは分かりません。もし、上記の試算がその姿と違っていれば、当然、上記のような賃金の増加があったときにはマクロの姿も違ってくるはずです。GDPの姿が賃金に影響を及ぼすだけでなく、賃金の姿がGDPに影響を及ぼすこともあるからです。その意味では、上記はあくまでも試算です。しかし、上記の試算は、交易条件の悪化があり、家計部門と企業部門がともにそのマイナスの影響を負担することになったとしても、消費者物価指数の伸びを上回る賃金上昇は不可能ではないことを示しています。(なお、前述の一人当たり賃金の上昇率が2.1%になるということは、春闘の言い方で言えばベースアップに相当するもののことなので、春闘賃上げ率で言えば、これに定昇分(約1.7-1.8%)を加えた4%程度を想定していることになります。)

 以上の試算は、交易条件の悪化の影響を家計部門と企業部門がともに負担するということと、消費者物価指数の上昇率を上回る賃上げを実現することが両立する可能性があることを示しています。2023年度における賃上げについては、こうしたことも考慮しながら検討されるべきだと思います。