円高とドイツの好循環経済
2010/11/15
米国の量的緩和政策第2弾の公表後、円高が一服している。今回の円高は、貿易相手国とのインフレ率の違いや貿易量を調整した実質実効為替レートでみると、過去20年の平均に近いので、格別問題にすべきでないとの意見もある。IMFも日本の為替レートは、日本の基礎的要因にほぼ沿った水準にあると論じている。
名目為替レートでみると、円は2007年の1ドル当たり120円を底として5割も上昇しており、急激な円高の進展は企業の経営採算の維持を困難にしている。また、この間に、円は韓国のウォンと比べて4割程度割高になっており、韓国企業との競争条件が不利になり過ぎているとの声も聞かれる。
国際競争力を示す指標として、欧州中央銀行は、貿易相手国との賃金コスト差を調整した実質実効為替レートを公表している。図は日米間の賃金コスト差を調整した円の実質為替レートを示している。1985年のプラザ合意以降、実質為替レートが増価した時期は、(1)1985-89年、(2)1990-95年(3)1998-2000年(4)2007-10年の合計4回ある。
(2)の時期の94年末にはGDPデフレータでみて、(3)の時期の98年末には消費者物価でみてデフレが始まった。95年に、円レートは1ドル当たり80円を切り、日本経済の実力を超えた為替レートの過大評価が生じた。日本企業は国際市場で生き残るために、賃金を始め固定費用を大幅に切り下げた。さらに、生産年齢人口が減少に転ずるなど人口構造変化もあって伝統的な雇用制度が変容を迫られる中で、デフレが定着していった。
賃金コスト差を調整した実質為替レートは、いくつかの簡単化の仮定を置くと、以下の3つの要因によって影響を受けることがわかる。
(1) 名目為替レート
(2) 両国間の貿易財価格の比率
(3) 両国間の貿易財と非貿易財の生産性格差の比率
第一の名目為替レートは、両国間の金利差や金融政策運営の相違を含む金融面からの影響を受けやすい。現に、米国の量的緩和政策第2弾は、日本のみならず新興国の為替レートに大きな影響を与えている。
第二の両国間の貿易財価格比率は、二国を想定するとそのまま輸出価格と輸入価格の比率(交易条件)に等しいはずである。しかし、産油国など第三国を考慮に入れると、日本の輸出物価と輸入物価の比率(交易条件)は、原油を始めとする原材料の価格変化によって大きな影響を受けてきた。
第三の両国間の貿易財と非貿易財の生産性格差の比率は、「バラッサ=サミュエルソン」効果として知られている。リカードは、産業のよく発達した国では、物価が高い傾向があると述べたことがある。産業の発達した国では、製造業の生産性の伸びが高く、賃金の伸びも高いのでサービスなど生産性の低い非貿易財の価格が上昇しやすい。そのため、インフレ率格差や賃金コスト格差を調整した実質為替レートは増価しやすい。
資源輸入・輸出指向型の経済構造をもつ日本は、米国と比べて製造業の生産性向上がサービス部門と比べて大きいので、実質為替レートはドルに対して増価しやすい。実質為替レートの増価が、この「バラッサ=サミュエルソン」効果の範囲内にあれば、国際競争力には影響しない。
1985年から2010年にかけて実質為替レートは5割上昇しているが、「バラッサ=サミュエルソン」効果による部分は限定的である。この間の実質為替レート変動の大部分は、金融要因によって左右される名目為替レートの変動によるものである。
クリントン政権の下で財務長官を務めたルービンは、かつて「経済の基礎的要因と比較した為替レートが過大評価されると、国際市場における製品やサービスの競争力が損なわれ、望ましくない産業空洞化が起こり、為替レートの安定が保てなくなる」(回顧録)と述べたことがある。日本は、90年代半ばに為替レートの過大評価を経験し、企業の国際競争力が損なわれた。現実に日本の世界における輸出シェアは、93年の10%から2008年半ば以降に5%程度へ低下している。
円高になれば、輸入財の価格が低下する。さらに、日本企業が円高分を輸出価格に転嫁出来れば、交易条件は改善するはずである。しかし、90年代半ば以降は、為替レートが増価しても交易条件はむしろ悪化傾向を示している。このことは、日本企業の価格支配力が、アジアを中心とする新興国の台頭もあって低下していることを示唆している。
これに対して、ドイツの賃金コスト差を調整した実質実効為替レートは、1999年のユーロ導入以来14%も減価し、輸出拡大を通じ成長率を高めている。ドイツのGDPに占める輸出比率は50%を超えており、しかも、ドイツからの直接投資を受け入れた東欧諸国は、ドイツの輸入増によって輸出が拡大している。ドイツは、ユーロに守られて、周辺国との分業体制を確立し、直接投資と貿易拡大、国内の生産性向上という「好循環経済」の構築に成功を収めつつある。
ドイツの教訓の第一は、日本もより深い地域統合を通じて、アジア諸国との「好循環経済」を構築することが可能なはずだということである。第二に、基礎的要因から乖離した為替レートの変動が、産業の競争力を損なうような事態は、出来る限り回避すべきであるということである。
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