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齋藤潤の経済バーズアイ

労働市場におけるモノプソニー:日本の場合

 

2023/03/02

【期待されている最低賃金引上げ、春闘における賃上げ】

賃金の低迷が日本経済の大きな課題としてクローズアップされていますが、それへの対応策として効果が期待されているのが、最低賃金の引上げと春闘における賃上げです。

最低賃金は長年小幅な引上げに止まっていましたが、2017年度に政府が全国加重平均で1000円にすることを目標として掲げて以降、コロナの影響を受けた2020年度を除くと毎年20円を超える引上げが続き、2022年度には過去最大の31円の引上げとなりました。

また、春闘賃上げ率も、2002年度以降2%を下回っていましたが、政府が労使に賃上げを要請した2014年度から2%を上回るようになり、コロナの影響を受けた2021年度こそ2%を割り込みましたが、2022年度も2.20%の賃上げ(厚労省調べ)となりました。

【教科書的な理解ではマイナスが大きいはず】

いまやこうした手段に期待するのが当たり前のようになっていますが、実はこれは労働経済学の教科書的な理解からすると分かりにくいところがあります。

労働市場における完全競争状態を前提にすると、労働需要と労働供給の均衡として決まってくる均衡賃金を下回るような最低賃金には意味がありませんし、均衡賃金を上回るような最低賃金を設定したとすると、労働需要を上回る労働供給が生じ、失業が発生してしまうはずだからです。

また、春闘が前提とする労働組合の団体交渉の役割は、それによって組合員の利益を最大化することが使命です。そのため、その交渉力を利用して賃金を均衡賃金以上に引上げしようとしますが、その結果、雇用量は均衡雇用量を下回ることになります。言ってみると、「インサイダー」のために「アウトサイダー」が犠牲になるようなことになります。

【鍵を握るのは労働市場がモノプソニーか否か】

もちろん、以上のような教科書的な議論が成立するためには、様々な前提が満たされている必要がありますが、その中の重要な一つとして、労働市場が完全競争状態にあるという仮定があります。労働を需要する企業と労働を供給する労働者の双方が無数に存在するという前提です。この条件が満たされないと、上記のような教科書的な理解は成り立ちません。

先に触れた労働組合の影響は、このうちの労働供給側において、全ての労働者の労働供給が一つの労働組合(モノポリーな労働組合:monopoly union)によって代表されるときの影響を議論したものです。そうであれば、同じように、労働需要側においても、一つの企業からの労働需要しかない(就職口が一つしかない)ような状況を考えても良いはずです。そのような状況は、労働市場においてモノプソニー(需要独占あるいは買い手独占: monopsony)が成立していると言われる状況です。労働市場がモノプソニーの状態にあれば、前述の議論も変わってくるはずです。その企業が唯一の就職口であるということの優位性を発揮して、賃金や雇用に影響を及ぼせるからです。

労働経済学の教科書でもモノプソニーは取り上げられています。ただし、そこで通常想定されているのは、特定の地域において、人を雇おうと思っている企業が地場の一企業しかないような状況です。このような状況にある場合には、その企業が支払う賃金は均衡賃金よりも低く、雇用量は均衡雇用量よりも少なくなります。

モノプソニーが存在する場合には、最低賃金や労働組合の団体交渉も、教科書的な結論とは違う意味合いをもってきます。モノプソニーの状態にある労働市場では、最低賃金の導入や労働組合の団体交渉によって、賃金を引き上げることができるだけでなく、雇用量も増加させることができることになります。これによって理想的には、均衡賃金と均衡雇用量を実現することさえできるはずです。当然、このような状況が実現できれば、失業が発生することもありません。

【米国や英国ではモノプソニーの影響を確認する実証研究も】

近年、こうしたモノプソニーが、一部の地域にだけ存在するのではなく、もっと広範に存在しているのではないかと考えられるようになってきています。この場合、モノプソニーは、就職口となるような企業が近くに一つしかないということではなく、そうした企業が少数に限定されている(労働需要の集中度が高い)ような状況に拡張して考えられていますが、そうした状況が賃金や雇用に影響しているのではないかというわけです。

そうした動きに先鞭をつけたのが、Manning (2003)などによるモノプソニーに関する理論的な整理です。また、そうした動きを受けてモノプソニーに関する実証分析も進められており、Benmelech, Bergman, and Kim (2018)やAzar, Marinescu, and Steinbaum (2019) が米国について、またAbel, Tenreyro, and Thwaites (2018)が英国について分析を行い、広範な地域・産業においてモノプソニーが存在し、それが賃金に対してマイナスの影響をもたらしてることを確認しています。

【日本でもモノプソニーの影響は確認できるか】

日本に関する研究はまだあまりありません。その数少ない実証分析であるIzumi, Kodama, and Kwon (2020) は、工業統計調査を用いて実証分析を行い、労働需要の集中度が高いと賃金は引き下げられる傾向にあることを確認しています。

(1)労働需要の集中度

以下では、簡便的な方法を用いて日本の労働市場におけるモノプソニーの存在とその賃金への影響について見てみましょう。

第1図は、地域的な労働需要の集中度を見るために、2014年の経済センサスの公表値を用いて計算した都道府県別のHHI(ハーフィンダール・ハーシュマン指数)を示しています(HHIの定義については、第1図の注を参照して下さい)。

これを見ると、いくつかのことに気が付きます。

第1に、HHIの値が概して低いことです。ここでは、5から173の間に分布しており、平均は27となっています。このような水準は、独占禁止法で企業結合審査の際の一つの目安とされている1500と比べて著しく低いものとなっています。

これにはいくつかの要因が考えられますが、一番大きく影響していると考えられるのは、HHIが対象としている地域・産業の広さであるように思われます。ここでは都道府県別に、そこに存在する全ての産業(サービス業も含めて)の全ての企業の常用雇用者数を対象にしています。そのような広さの対象となると、それだけ企業数は多くなり、それぞれの常用雇用者数のシェアは小さくなるからです。先に紹介した先行研究では、地域別・産業別にHHIを計算しており、しかも地域別では、いわゆる通勤圏を意識して狭い範囲を捉えています。

第2に、HHIは、都道府県別に見るとかなりの散らばりを示していることです。傾向として読み取れるのは、東京都や大阪府などの大都市圏は概してHHIが低い(集中度が低い)のに対して、山口県や滋賀県などの地方圏は概してHHIが高い(集中度が高い)ことです。これは、産業や企業の集積状況からすると妥当な結果のように思えます。

もっとも、北海道のHHIが低いなど、例外も多いことには注意を要します。この背景には、都道府県別に計算しているので、HHIが高い地域があったとしても、HHIが低い地域と合わせて計算されることによって影響が薄まってしまうことがあるように思います。

(2)賃金との関係

第1図では、賃金との関係を見るために、HHIに加えて、都道府県別の一人当たり雇用者報酬もプロットしてあります。これを見る限り、HHIとの間に明確な関係があるようには思えません。ただ、ここにはいくつかの問題があります。

第1に、ここでは賃金の指標として一人当たりの雇用者報酬をとっていることです。これには当然、全ての雇用者の全ての賃金が含まれていますが、そこに問題があるのかもしれません。日本は終身雇用制の下にあるので、いったん就職したとすると、定年までは離職する可能性は低いと考えられます。そうであれば、他の企業との間で、当該雇用を巡る賃金競争は働いていないと考えるのが自然です。したがって、モノプソニーの影響を捉えるためには、全雇用者の平均賃金とは別の指標を考える必要があります。

その意味でより適切であると考えられる指標は初任給です。新卒の採用時には他の企業との競争関係があり、賃金もそれを反映している可能性が高いからです。

第2に、仮に初任給を考えるにしても、初任給に影響を及ぼすのは、他の企業との競争関係だけでなく、その企業の産業分野やそれを反映した生産性、その地域の物価水準(これによって実質賃金が変わってくる)や景気動向が関係してくると考えられます。したがって、労働需要の集中度の影響を考えるにしても、これらの影響を考慮する必要があります。

(3)初任給とHHI

そこで、2014年の都道府県別クロスセクション・データを用いて、男女別に高卒の初任給(対数値)をHHI(対数値)、消費者物価指数(対数値)、製造業シェア、非正規雇用者比率、失業率で回帰させてみました。その結果によると、HHI(対数値)は5%の有意水準で有意に負の値となりました。ということは、労働市場におけるモノプソニーが初任給にマイナスの影響を及ぼしていることを示しています。

その点を確認するために、第2図では、HHI(対数値)以外の要因の寄与を除去した後の残差とHHI(対数値)との関係を見ていますが、これを見ると両者の間の負の相関がみて取れます。

【労働市場におけるモノプソニー研究の重要さ】

このように見てくると、日本でも労働市場においてモノプソニーが存在し、それは賃金形成に影響を及ぼしていることがうかがわれます。最低賃金が雇用に与える影響が見られないとする実証分析の結果も多くありますが、その背景には、このモノプソニーの存在が考えられます。

このことは今後の経済政策を考えるうえでも非常に重要な意味を持っています。冒頭でも取り上げた最低賃金や春闘賃上げに関する政策も、より積極的な意味合いを持つことになるからです。また、そうした政策は、マクロ経済政策の一環としてだけではなく、所得の不平等度の拡大に対する政策としても重要であることを意味することになります。

日本におけるモノプソニーの分析はまだ十分ではありません。理論的・実証的な分析をもっと進めることが求められています。

【参考文献】

Abel, Will, Silvana Tenreryo, and Gregory Thwaites (2018), “Monopsony in the UK”, CFM Discussion Paper Series 2018-27, Center for Macroeconomics, London School of Economics and Political Science.
Azar, Jose, Ioana Marinescu, and Marshall I. Steinbaum (2019), “Labor Market Concentration”, NBER Working Paper 24147, National Bureau of Economic Research.
Benmelech, Efraim, Nittai Bergman, and Hyunseob Kim (2018), “Strong Employer and Weak Employees: How Does Employer Concentration Affect Wages?” NBER Working Paper 24307, National Bureau of Economic Research.
Izumi, Atsuko, Naomi Kodama, and Hyeog Ug Kwon (2020), “Labor Market Concentration on Wage, Employment, and Exit of Plants: Empirical Evidence with Minimum Wage Hike”, CPRC Discussion Paper Series, Competition Policy Research Center, Japan Fair Trade Commission.
Manning, Alan (2003), Monopsony in Motion, Princeton University Press.