6分野の構造改革
2021/07/19
今年に入ってから、旧知の経済学者が相次いで2人も亡くなられた。一人は池尾和人先生で、もう一人は山崎福寿先生だ。まだまだ活躍して欲しかった両先生なので、まことに残念である。ご冥福をお祈りします。
全くの偶然だが、このお二人と私との接点が始まったのは全く同じ時だった。それは、1996年に、経済審議会の場で展開された「6分野の経済構造改革」の議論に参加していただいた時である。6分野の中で、池尾先生には金融分野、山崎先生には住宅・土地分野の議論に加わっていただいた。この作業は私にとって思い出深いものがある。
画期的だった議論の進め方
内国調査課長として、93年、94年の経済白書を書いた後、国土庁の地方振興局に出向していた私は、96年6月経済企画庁に戻り、総合計画局の審議官となった。審議官というのは、局長に次ぐ局内No.2のポストである。総合計画局の最大の任務は経済計画の策定だが、最新の計画「構造改革のための経済社会計画」が1995年12月に完成したばかりだったので、私の任期中は計画作りの仕事は回ってこなかった。
この時の私の最も大きな仕事は、経済審議会で規制緩和の議論をまとめることであった。この議論は、分野を絞って行われることになり、医療・福祉、土地・住宅、高度情報通信、物流、雇用・労働、金融という6分野を対象とすることになった。これが「6分野の経済構造改革」である。これを議論する母体として「行動計画委員会」が作られ、その下に六つの分野それぞれについてワーキンググループが設けられた。この時の議論の進め方は、従来の審議会運営とは異なる画期的なものだった。
第1に、審議そのものが公開された。それまでの審議会運営では、審議は非公開で行われ、会議終了後にまとめ役の委員または事務局がマスコミに議論の概要を紹介するというやり方がほとんどであった。これに対して、この6分野の審議は、委員会の議論が公開され、マスコミや関係者も傍聴できるようにした。
第2に、ワーキンググループの報告書は、原案をワーキンググループの委員が執筆した。通常の審議会運営では、議論の場で各委員が意見を述べ、それらの意見を集約して事務局が報告書の原案を書き、それに対して委員が意見を出して適宜修正していくというやり方がほとんどであった。これに対して、この6分野の審議については、委員が報告書の原案を書き、それをさらに議論していくという方法を取った。
この画期的な審議会運営を主導したのは、大蔵省から計画課長として派遣されていた志賀櫻氏だった。計画課長は、総合計画局の総括課長であり、局全体の仕事を統括する立場にある。志賀氏は文字通りの快男児だった。私も含めて多くの関係者が、そんな大胆な審議会運営を実行して大丈夫か、といぶかる中で、豪胆にどしどし新方式を実行していった。なお、この志賀氏は、大蔵省退職後、弁護士となり、岩波新書「タックスヘイブン」「タックスイーター」という著書を出すなど、国際税務に精通した弁護士として活躍していたのだが、惜しいことに2015年に急逝されている。
この画期的な審議会の運営は大成功を収めた。まず、ワーキンググループのメンバーの有志が報告書の原案を書く。我々は「どうぞ思う存分自由に書いてください。可能な限りそれをそのまま審議会の答申にしますから」と言って、起草に当たった委員にお願いした。日頃から規制緩和を主張している経済学者たちは、勇み立って原案を書いた。
ワーキンググループの報告書の原案がまとまると、関係省庁の意見を聞くための委員会を開く。ワーキンググループの委員たちは、当然、規制を緩和させようとする。これに対して、関係省庁は「そうは言っても、かくかくしかじかの事情があるので、規制を緩めることは難しい」と反論する。これに対して委員たちはさらに厳しく問い詰める。役所側はしばしばたじたじとなる。これが公開で行われたのである。マスコミにとっては大変面白い見ものだったはずだ。委員会があると、翌日の新聞には、大きく取り上げられるのが常であった。
大きな成果
こうなってくると、役所サイドも、いい加減な理屈で反対するわけにはいかなくなる。経済審議会という誰もが一目置く審議会だということもあって、議論が進んでいくと、関係省庁は続々と委員会の提案を受け入れ始めた。
例えば、物流分野では、運輸省が需給調整の観点から様々な参入規制を行っていたため、物流ワーキンググループはこれを廃止することを求めた。議論が進んでいたある日、運輸省の担当課長が事務局を訪ねてきて、運輸省としては基本的に需給調整の観点からの参入規制を廃止することにするという方針を伝えてきた。これは大きな成果だった。
劇的に議論が進んだのが金融分野だった。金融ワーキンググループの座長は前述の池尾先生である。池尾先生が出してきた原案は、まさに画期的なものであった。報告書は、それまでの日本の金融システムに存在したのは、業態ごとに「仕切られた競争」だったとし、今後は、こうした同質的競争に代えて、各金融機関の活動の場を抜本的に拡大し、非金融部門からの新規参入も含め、異質で多様な参加者間の競争を促進する必要があるとした。そして、それを実現するために、参入規制、業務内容等への制限・禁止・許認可等は原則撤廃するという方向を打ち出し、それを事項ごとに具体的に列挙したのである。委員会に大蔵省が呼ばれ、この原案についての議論が進められた。
その途中で驚くべきことが起きた。96年の11月に、橋本総理が三塚大蔵大臣、松浦法務大臣に対して、日本の金融市場をニューヨーク、ロンドン並みの国際金融市場とすることを目指して金融システム改革に取り組むようにという指示が出たのである。その金融システム改革の目指すべき方向は「フリー」「フェア」「グローバル」だとされた。いわゆる「金融ビッグバン」への動きが始まったのである。このビッグバンの内容は、経済審議会の6分野の改革で議論されていたものとほぼ同じであった。
このやや複雑な成り行きについての私の理解は次のようなものである。大蔵省は6分野の議論を進めていくうちに、従来型金融システムの大改革は避けられない流れだということを認識するに至った。そして、それが避けられないのであれば、この改革をできるだけプレイアップしようと考えた。経済審議会の指摘に従って改革を進めるのは受け身に過ぎると考えたのだろう。そこで、橋本総理に「金融ビッグバン」のアイディアを説明し、総理が基本的な指示を出し、これを受けて大蔵省が改革を進めるという流れにしたのではないか。
これによって、総理は自らの改革姿勢をPRできるし、大蔵省は受け身の姿勢から抜け出せる。まさに名案だったのだ。こうして池尾先生を中心とする金融改革の議論は、日本の金融システムの行方を決める役割を果たすことになったのである。
こうして6分野の構造改革の議論は赫々たる成果を上げて、1996年12月、経済審議会において建議として正式に決定されたのだった。
板挟みの苦悩
というわけで、この大作業はうまく終わったのだが、せっかくの機会なので、個人的に私が苦労した点についても触れておこう。
私が大変困ったのは、行動計画委員会の委員や経済企画庁の幹部から報告書を修正せよという意見が出てきたことだった。委員会の場で、関係省庁に対しては、委員が原案を書いているので、原則として委員が了解したものでない限り修正には応じないという態度を貫いてきた。関係省庁が報告書を修正して欲しい場合には、事務的に連絡してくるのではなく、委員会の場で意見として言って欲しいということである。したがって、行動計画委員会の委員や企画庁の幹部が、事務局に「この部分を修正せよ」と言われても困るのである。それが実際に起きてしまったのである。
例えばこういうことがあった。行動計画委員会の委員で大蔵省出身のY委員が、「言いたいことがある」というので行ってみると、いろいろと意見が出た。Y委員は、そもそも委員会を公開で行っていることが気に入らなかったようだ。学者が役人をつるし上げているような場になってよろしくない、と言われた。しかしこれは既に動き始めてしまったことなので、いまさらどうしようもない。またY委員は、主に金融分野の報告書の内容についてもいくつかコメントしてきた。一応反論して役所に帰ってきたのだが、このY委員はかなりの実力者だったので、困ったなと思った。
Y委員に呼ばれた後、私はT官房長のところにY委員への対応方針について相談に行った。T官房長は同じ大蔵省から来ていた人で、Y委員は大先輩にあたる。私の説明を聞くと、T官房長は「小峰君、ここでひるんじゃ駄目だぞ。絶対修正しては駄目だ」と、強い口調で私を励ました。私はこの激励にすっかり意を強くして、結局最後まで無修正で乗り切ることができたのだった。
もっと困ったのは、次官から強いコメントが来たことだった。次官は、この6分野の構造改革の審議に大きな関心を寄せていた。経済企画庁にとっても重要な作業だと考え、期待するところも大きかったのだろう。6分野の議論が進んでいくと、次官はいろいろ注文を付けてきたのだが、大きなものは二つあった。一つは、金融の内容が細かすぎるというものだ。確かに、金融グループの報告は、細々とした制度的な修正が列挙されたもので、読んで面白いものではない。次官は、もっと大局的な観点から制度改正の大筋を示せばいいのではないかとしきりに言ってきたが、これは「制度的な細かい点を指摘するところに意味があるのです」といって突っぱねた。
もう一つは、土地・住宅ワーキンググループの報告についてで、次官はこの分野に豊富な経験がある人だったので、いろいろ注文が付いた。仕方なく私は修正案を考えて、土地・住宅グループの座長の岩田規久男先生に伝えると、「次官がそれほどおっしゃるなら修正してもいいですが、原案を書いたF先生に断ってください。ただし言っておきますが、F先生は手強いですから、相当抵抗すると思いますよ」ということだった。そこで、恐る恐るF先生に電話してみると、F先生は「今さら役所の意見を受け入れるわけには行かない」と強硬に修正に反対した。岩田先生の予言通りだったわけだ。これが金曜の夜だった。
私は、懸命に考えてさらに修正案を考えた。この案は、原案の主張をできるだけ生かし、かつ若干は次官の言い分も反映したものとなるようにしたものだった。翌土曜日、再度F先生に電話したのだが、相変わらず「役所の言う修正は認めない」という反応だ。私も「原案の主張はほとんど変えていませんから」と食い下がるのだが、なかなか認めてもらえない。そのまま1時間以上も議論を続けた挙句、ようやくさらに修正をするということで納得してもらったのだが、それは次官の求める修正からはますます遠ざかるものだった。この修正案を次官のところに持って行っても「こんなものは修正になっていない」と言われるに決まっている。かといって、次官寄りに修正したら、今度はF先生が認めないだろう。
家に帰ってからも私は困り続けた。月曜日には次官のところに行かなければならない。日曜日に打開策を考え続けた私は、結局実情を率直に伝えるしかないという結論に達した。そこで私は、次官に修正を求められてからの逐一の経緯をメモにまとめた。月曜日になって次官のところに説明に行った私は、このメモを示してこれまでの経緯を詳しく説明した。すると、同席して聞いていたT官房長が、「小峰君もここまで粘ってダメだったということですから、もうこれでいいのではないですか。これ以上委員と対立するのは良くないでしょう」と助け船を出してくれた。これで次官もあきらめたようで、ようやく私の修正案を認めてくれた。
なお、この時激論を戦わせたF先生は、このことがあってから私をずいぶんと信頼してくれるようになり、数年後私が役人を辞めることが決まった時は、ご自分の大学に是非来るようにと私を誘ってくれたほどであった。
後日、委員会の議論が収束した後、次官は私に、「小峰君ね。君が持ってきた修正案は、全然修正案になってなかったよね。この点は、私はいまだに不満だ。しかし、金融については、制度の細かいところを盛り込むべきだという君の主張が正しかった。この点は私が間違っていた」と言った。次官の介入にはずいぶんと悩まされ、対立してきたのだが、こうして自らの誤りを素直に認めるのは、上に立つ人間として素晴らしいことだなと私は感心したのだった。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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